『100分de名著 司馬遼太郎スペシャル』(磯田道史) ― #おすすめの本

『100分de名著 司馬遼太郎スペシャル』(磯田道史)の概要

司馬遼太郎さんの「国盗り物語」「花神」「『明治』という国家」「この国のかたち」といった著作から、歴史家の磯田道史さんが、様々な考え方を教えてくれる優れた一冊です。

信長は部下を道具としてしか見ていなかったのに、大将を務める事ができて強かった。

架空と現実が交錯する時、良い物語が生まれる。

どこにでも何にでもやりがいはある。

西郷さんは、江戸幕府を倒した時の明確なビジョンを持っていなかった。

このようなキーワードに興味を覚える方なら、きっと本作を楽しめるのではないか、と思います。

司馬遼太郎スペシャル[本/雑誌] (NHK 100分de名著 2016年3月) / 日本放送協会/編集 NHK出版/編集 磯田道史/著

『100分de名著 司馬遼太郎スペシャル』(磯田道史)の好きな登場人物

『100分de名著 司馬遼太郎スペシャル』(磯田道史)では、司馬氏の様々な著作について論じられていくのですが、その中で、司馬さんが信長について面白い事を書いています。

信長は結局、人間を道具として見ていた。

道具である以上、鋭利な方が良く、また使い道が多様であるほど良い。

(中略)秀吉は早くから信長の本質を見抜いていた。

この徹底した唯物家に奉公するために我を捨て、道具としてのみ自分を仕立てた。

相手や部下を道具としてしか見ていなかったというのは、奔放な信長らしい考え方だと思います。

現代のリーダーが周囲の人を道具としてしか見ていなかったら批判の的にさらされてしまいそうですが、信長ならそれが許されてしまうというのも、信長の魅力を端的に表している部分だと思います。

確かに人材を道具としてその機能に沿って適切に用いれば、最も効果を発揮しそうですが、不平不満は生まれそうです。

しかし、こいうった人物起用の仕方もあるのでしょうか。

いずれにせよ、このような手法は一般的に許されるものではなく、信長だから通用したのだというような気がしました。

このように『100分de名著 司馬遼太郎スペシャル』(磯田道史)には、歴史上の人物について、様々な面白い考えが披露されています。

他にも色々と面白い話はあるのですが、信長のこのようなエピソードが印象的です。

『100分de名著 司馬遼太郎スペシャル』(磯田道史)の印象に残ったこと

磯田氏は、次のように述べています。

作品で描く世界は、必ずしも史実に沿っていなくていい。

舞台が歴史的世界であれば、その中に人工的に作った人間を置いて自由に動かし、その時代の中で人間はどのように生きるのかという思考実験を行う。

架空を突き詰める事で現実を考えてみる、起きうることを考えてみるという世界ですから、ある意味時代小説は架空物であり純粋理論の世界です、と磯田氏は述べています。

歴史というのは実際に起こった事を忠実に記録してきた言わば世界の縮図であると思うのですが、歴史小説とはそれを題材にして架空の純粋理論の世界を展開させていくものである、と言うのです。

歴史を1人の作家の中にダウンロードして、それがどのように広がり展開していくか、という事をひとつの視点から見ていったのが歴史小説だと述べられており、これなどは面白い考え方だと思います。

これには、歴史という現実の事実に、架空の要素を展開させていくという非現実性がある一方で、それは作者にとっては思考を通して現実に展開していった事実であり、そのような意味において歴史小説も実際に広がっていったひとつの現実と言えるのではないか、と思われます。

そして、その架空世界が現実性を得る時、そこに大きな魅力が生まれるのではないか・・・

歴史小説は架空の存在である、という磯田氏の考え方には大変面白いものがあると思います。

そこを起点として物事を考えていく思考実験の手法には、現実に応用できる様々な価値があるように思えます。



『100分de名著 司馬遼太郎スペシャル』(磯田道史)で学んだこと①

著者である磯田氏は、学歴社会についても一言を残しています。

学歴社会では学歴だけで全てが決まってしまうという捉え方もありますが、逆に言えば学歴があれば誰でも出世できる自由競争を体現しているとも言えます。

普通のサラリーマン家庭でも、商店主でも、受験戦争を勝ち抜く事で誰にでも成功の物語が用意されている社会であると言うのです。

確かにそのような捉え方も出来そうです。

昔は自分で職業を選ぶ事すらできなかったですし、明治時代の小学校の就学率が50%しかなかった(三重県の例)という事を考えると、学校で勉強するという事も今とは大きく異なっていたのではないかと思います。

このように受験で勝ち抜き、良い大学に入る事で成功する事もできますし、良い大学に入らなくても充実した生活を送る事はできます。

地域密着型の店に就職して、地域住民とのふれあいを大切にするという仕事もあります。

同じ仕事でも自分が日本社会を動かす一員として働いている、という意識を持つだけで仕事は輝きを放ち出します。

これほど大きな不定形の共同体を私は支えているのだ、と思うだけでそこにやりがいを見い出す事はできそうです。

例えば、農業等でも日本の食を支える大切な仕事をしている、と考える事で、使命感を得る事ができます。

美味しい食べ物をみんなに味わってもらいたい、という思いで品種改良に取り組んだりして、そこにやりがいを見い出していく事もできると思います。

それ以上に農業をやっていると、地に足の付いた仕事や自然と触れ合う作業を通して、日本の原風景に触れる事で大きな感慨を抱く事があり、そのような時、この仕事をやっていてよかった、と思える事もあるのではないかと思います。

このように、学歴社会で出世する楽しみと、仕事に生きがいとやりがいを見い出して生きていく楽しみの両方が、日本社会にはあるのではないかと思います。

磯田氏の学歴社会論を読んでいると、そのような考えが浮かび上がってきました。

『100分de名著 司馬遼太郎スペシャル』(磯田道史)で学んだこと②

司馬氏は、明治維新という革命が既存の国家・社会の枠組みを壊す事が先になっていて、どのような国をつくるかという青写真がなかったと喝破しています。

「実を言いますと、西郷は幕府を倒したものの、新国家の青写真を持っていなかったのです。新国家の青写真を持っていた人物は、私の知る限りでは土佐の坂本龍馬だけでした。」

磯田氏は、司馬氏のこのような言葉を引用して、明治維新当時の事を説明しています。

西郷さんが江戸幕府を倒した後の事を考えていなかったというのは、今では考えられない事であると思います。

今で言えば、政党が政権を取ったら何をしたいかという明確なビジョンがないまま、その政党へと政権交代が行われたという事ですから、ちょっと無茶苦茶なような気がします。

しかし、それで明治維新が成り立ってしまったというのですから、どこか不思議であると同時に時代の流れがあったのかな、と思える部分もあると思います。

私達がこの事から何か学べるとしたら、先の事をどこまでも予測分析して考えていかなくてもなるようになる、という事でしょうか。

ただ幕府を倒す事しか考えていなかった西郷さんが偉業を成し遂げた事を考えると、どうしようかと思い悩み身動きの取れないような時には、とりあえず行動を起こしてみよう、そして実際に起こった結果から次の行動を決めていこう、と考えていく事ができるのではないかと思いました。

あらかじめ、全ての予測が立っていなくても、事がなせる時はなせる。

そんな事を学ぶ事ができたような気がします。

『100分de名著 司馬遼太郎スペシャル』(磯田道史)のまとめ

かつて日本語には主語がないという事がよく論じられていたと磯田氏は言います。

文部省が出版した「国体の本義」の中に、日本語に主語がないのは無私の心があるからだ、というような事が書かれています。

しかし、磯田氏は「私」がないのではなくて、「私」と相手の区別がないのだと主張しています。

つまりこれが「共感性」だと述べています。

私と相手の区別がない時、大きな一体感に包まれている時、自分が日本社会の一員だという思いに駆られ、それに貢献する仕事にやりがいを持てる・・・

架空と現実の区別が無くなる時、人は偉大な時間を生きられるのではないかと思います。

無私の教えは仏教の無我の教えを彷彿とさせます。

己を小さくして行った先に大きなものとの一体感があり、人は本当の心の安らぎを得る事ができるのではないでしょうか。